昭和40年04月30日 朝の御理解
あれにもう本当に、例えば、ある総代さんの奥さん今朝参って来てから、この方はあんまり熱意を見せなかったんですね、今度のことに。ところが、昨日帰ってから、奥さんはご祝儀の仲人しておりましたもんですから、そんな関係でお参りができてなかった。昨日はもう深夜帰ってまいりましてもう元気いっぱいで帰ってきた。これはもう俺だんがどうこう言うたっちゃでけんぞと。まああの勢いならできるぞ、これはもうあの勢いに便乗さしてもらわにゃ馬鹿らしかちゅって帰って来ました。ね。
この人もあんまり熱意を見せなかった総代さんなんですけれども、ところがです、ここへ参りましてから、あの勢いに触れ、そして自分の受け持っておる役目というのがです、自分に適切であったというのでしょうね。ちょうど水をなくしておる魚のようにですね、もう水を差し向けられたようにビチビチとして、そのこと一生懸命になっておられた姿はもうひとしお、皆の目に止まるくらいでございましたですね。
そういうものがです、例えば生き生きとして、良しきにつけ悪しきにつけ、神様の勢いというもの。先ほどもお土地世話をなさってある中鶴さんが見えられてからです、ね、椛目の話をさして頂くと、いろんなもの、良しにつけ悪しにつけその様々な村での評判やらを聞かれてからです。とにかく、椛目の先生っていう人はもう何でん有り難い有り難いで受けていかっしゃるとじゃから。
お前だんも横でぐずぐず言うたっちゃ同じ事ぞと、認めれて初め二反がどうこうで東京行きまでさっしゃった。それでもおかげの元になったっちゅうて三反になった。ようやく出来たと思いよったら下の段の人が、ああのそうの、強情はってから認めないということになった。それもまたおかげで見てみれ六反の、あげんして一番初めから言われた通りに石浦に、しかもバス通りに、ああいうそのう。
まあ言うならおかげ頂かっしゃったというわけじゃないけれども、ああいうふうに大体頂かっしゃる人だった、椛目の先生ていう人は。だからもうどこにどういう、例えば不浄がかかってもならんて。例えだから、その地主さんなら地主さんの方たちにでも、無理があっちゃならんて。もうとにかくこちらの部落の方たちからでも、祝福されてから私は移りたいちゅって、いつも言われる人だと言うて、私は説明しよりますって言われる。しかしその通りなんですもんね、椛目の場合は。
そういう勢いで信心のない人たちが感じておられるということです。ね。ですから、本当に私は椛目にご縁を頂いておる方たちはですね、本当に椛目にご縁を頂いておる、そして、金光教の信心を頂いておるということにです、本当に有り難いって気付かしてもらう。まず。そして本当にそれを自分で分からにゃいかん。今日も、長男が、大祭の、が昨日、今日がまあ休みの連休だったらしいんですね、まあ帰ってはきませんが、あちらででしたけども。奥様がご結界奉仕されて、親先生は大祭に行かれて。
自分はこちらへ、だから2、3時間帰ってきておりました。そしてです、あちらこちらの話、同じ教団の中でもですよ、話を聞かせて頂いて、椛目っちゃあ何て有り難いことだろうかと。ね。とにかくその、実例をいろいろ、申しておりましたら、そうすると、まあその、椛目のええことばっかりを言うたり、よその悪口になるかも知れませんけれどもです。確かにそれを、その見たり聞いたり、それに接する時にです、それをお互いがまずひとつ気づかにゃいかんです。
考えて言うと有り難い所だなあということ。しかもそういう生き生きとした働きがあっておる所だなあということ。ね。例えばそのあまりに意欲を見せなかった総代さん方、2人の例をお話いたしましたけれども、ね。心には思うておられたに違いない、椛目の総代ぐらいにでもなる人達ですから。けれどもそういう勢いにぽっと触れた時にです、大体はあるのですから、その、勢いがぱっと出てきた感じが致します。ね。
私は今日はちょっと客室、客殿の方へまいりましたら、あそこへあの本が何冊も2階に持っていってある。先日から豊美のお友達が見て、本をこうあけた中にです、一番上に置いてあるのが創価学会の本が置いて御座いますもん。私はこれは確かにもうこの頃からの、麻生さんがどっか道端で拾ったらしいんです。そいでここへ持って来てた。読もうと思うておったらなくなった。したらあそこに出てきてるわけなんです。
ちょいとあけて見せて頂いたらなかなかやっぱり良いことが書いてあるんですね。それは創価学会一流の、まあ言うなら毒舌というか独筆というか(笑)。そんな感じですけれどです。けれどもやはり人が助かることのうえにおいて、人が助かることにおいて、生き生きしたものをもっておられる宗教だと私は思うのです。その中にです、「毒薬変じて薬となる」ということが書いてあった。皆が信心をされるようになる。ね。
すると必ず今まで仲が良かった夫婦の仲に、波風がたつようになる。今まで出なかった病気が出てくるようになる。思いもかけない災難が襲ってくる。これは確かにあることを覚悟しなければならんと。もう表面にどうどうとそんなことを言っておることは、私は素晴らしいと思うですね。けれども、それはです、私共が長年、その悪い宗教をしてきたっちゅうわけなんです。ね。
邪教を信じて来たっちゅう訳です。その天罰がそういう結果になっておるのであるから、その言わば悪毒悪事といった様なものが、夫婦喧嘩になって現れたり。災難になって現れたり、いう難儀な事になって現れるのであるから、ここんところを、言うならまあ有り難く頂いて、そして只々しゃくふくという事お導きをするという事ですね。しゃくふく一途にそのなればです、必ず幸せが好転して来るという事が書いてある。
このへんになってくる時に金光様のご信心とはもう全然、天と地ほどの差を感じます。ね。もうとにかく(ひゃくふく?)さえすれば、喧嘩ごしでもいいから、人が導きさえすれば助かるといったような、そら助かるかもしれませんけれどもです、助かりようが私は、私共の信心から言うと、おかしいと思うですね。お道の信心は椛目の信心はどうかと言うと、ね、確かにありますですね。
信心が熱心になってくればくるほど、有り難いものが半分頂けるその反面です。ね。確かにめぐりのおとり払いを頂くだけでは、もう間違いないです。これは皆さんも体験しておられることであり、まあ一番分かって頂くのなら、まあ私の例が一番いい。まあ言うならしだごだの信心、いわゆるおかげ。ご利益信心の間はそれはなかった。本気で信心さして頂こうという気になったら、ね。
あれだけ熱心な信心をするのにどうしてあのようなことが続いて起こるであろうかというようなことが起こってきた。ところが片一方には有り難い有り難いというものが。神様が与えて下さるもんですから。そのことを有り難い有り難いで受けぬかせて頂きよったら、なるほど、私共は、まあ夫婦喧嘩などしませんでしたけど。ね。夫婦仲悪うなるようなことはなかったですけれども、親や兄弟、いよいよ円満になっていったことだけも事実です。お道の信心はそれです。ね。
けれども確かにその、世に言う難儀というのは大変な難儀が続いたということなんです。連続的でした。そこんところを創価学会のその本にですね、そういう今お道で言うならめぐりがです、お道のあちらで言うならば、今まで悪い宗教を邪教を信じてきたその天罰がです。ね。てき面にそのこう先を争うて出て来る様に必ずなるという事が書いてありましたね。先を争うと出て来る様になる。この見本はひとつ私共が実感しなければいけないことだと思う。先を争うと出て来る様になる。これが有り難いです。
私共の場合はそうでしたもんね。本当に先を争うて難儀が積み重なる様に出て参りましたですもん。ね。その後に幸福が言わばやってくると、本当の幸せが頂けるというふうにまあ説いて御座いますもん。ね。金光様のご信心の場合はしゃくふくとか、お導きをせにゃ助からんと言った様なではなくて、もうとにかくその事によって本心の玉を磨く事だという事。その事によって本気で改まるという事だということ。
今朝のご理解の中にもです。ね。皆さんが例えばこの度のご造営のためには、どうでもこういうおかげを頂かせて下さい、ああいうおかげを頂かせて下さいというのは、涙ぐましいまでにです。ね。勢いをもって願いなさるけれどもこのご造営を境に本気でこのところをの、我を取り除かして下さい、改まらして下さいという人が少ない。少ないって、まあない状態だって私は言うてお話したことですけれども。ね。
本心の玉を磨かしてもらうということ、改まらして頂くということ、ね、そこに神様のその改まるという意欲や磨かして頂くというその願いに対して神様が喜んで下さる、感動して下さる。その感動がです、私共の心に響いてくる。それが心からわいてくる喜びになってくる。ね。その喜びをもってしなければとても私共の、あの、言うなら受難時代というものは受けきれなかったと私は思うです。
ですからこの辺になってくる時にです、私は信心には度胸がいると思います。決してとって食べてしまおうと仰るようなことは神様はないということ。しっかりおすがりさして頂けばです、ね、こちらにおとり払い下さるかと思うと、片一方には有り難い勿体ないと感じるようなおかげを片方には下さっておるんですからです。ね。この辺の所をです、言わば本気でおとり払いを頂くならおとり払いを頂こうという度胸をすえてです、おかげを頂いていかなければならんということ。ね。
ここんところをです、もう八分までは、言わばそのおとり払いを頂いておるのに、ね、そこんところを教祖の神様はです、ね、信心さして頂きよってもです、ね、信心は井戸ざらいと同じことと仰っておられる。七分八分までおかげ頂いておってもです、やっぱり、その、瓦やら泥やらと言った様なものが上がって来る。だからここを頂きぬかせて頂いて、下からこんこんと沸き上がって来る様なお水の頂けれるところまで、お互いが辛抱し抜かせて頂かなければいけんという事が分かるでしょう。
この辺をいい加減にしておさえたようにして、ただ、おかげのことばっかりを考えて、ね、言わばうだつの上がらない本当の金光教の信心の素晴らしさを分かることのできないことになってしまっておるわけなのです。まあそこでですね、私思うんです。そんなら信心さしてもらえばやっぱどうでもいっぺんその災難にぶつからなきゃならんかということ。総代が言っておるようにです。
競ってその災難が出てくるという、それは邪教、邪宗を信じたからではない。お道の信心は前々のめぐりで難を受けおると仰います。そのめぐりのおとりはらいというものはです、言うならば借金のようなものだということ。天地に対するところのお粗末ご無礼であるということ。言うなら天地に対するところの借金であるということ。うん。利払い的な信心はできても、元金の払う時の信心はできんからお徳にならない。
ただ、おさえて、もう災難は恐がる、いやいや災難ちゅうとおかしいですけど、めぐりができてくることを恐がる。そこんとこを四神様も教えておられますですね。氏子がどうぞおかげを頂かせて下さいって真剣に頼むから、神は真剣におかげを頂かせてやろうと神様の方がお働きが始まると、もう神様このくらいでようございますと言うて後ろに下がるような氏子があると仰る。
真剣に真実の幸せを頂かせて下さい。信心による助かり救いを頂かせて下さいと願うから、真実幸せを本当にやろうと思うて、神が出向いていかれると、言わば借金取りに行かれるともうそのくらいでこらえておいて下さい。もう半分に負けて下さいと言った様な事を言うということ。これじゃいつまで経っても、言わば井戸ざらえが出来ない様なものであり、借金払いはいつも残って居る様なものであるということ。ね。
だんだん神様が分かれば分かるほど、本気でひとつ度胸をすえて、私は神様に打ち向こうていかなければならない、同時にです、んならそういうような先を競うて災難が現れると言う様な事は確かに本気で信心、本気で打ち込ませて頂けばですたい、ね。例えば去年の今頃だったですかね、関さんの例を見れば一番分かるでしょう。そらもう目も当てられないああいう状態でおった。
それにかけて加えて、ご長男があんな状態であった。ね。所がその家庭におかげを頂いただけではなくて、その長男が先日今はどっか二日市の近所におられるんですけれども、ほんなことこげな家に入っとってよかじゃろうかちゅうごたるその、お玄関つきの立派な家に住まっておられてから、そいで最近あるセールスをしておられるけれども、そこの会社で一番の売上、だからあのお金ちょっと置いていこうかちゅったら、いやもうおかげで、この頃はもうお金はおっかさん貰わんでよかよちゅって言うた。
もう本当におかげになる時は、そういう風にしておかげになっていくという事ね。例えば関さんご信心性格はです、もうそれこそやや言う様な信心ですから、神様もやや言う様にしてですね、お取り払いを一遍にして下さったという事を感ずるでしょうが。最近はあちらの店に表れておる、言わばご比例というものは、もう今朝からも参ってお礼来てお届けされておられますけれども、もうそれは本当に条件に及ばんという事。
もう最近成り行きを大事にするということがです、もうこげん有り難いことかということは、あのまあ、親子でそれを話しておりますとこう。そのことの、おかげを受けたことを話しておられましたがです、いかに成り行きを大事にしていかなければならんか、成り行きを大事にしにくいところを大事にさして頂くと、次にこげなおかげが待っておるということを今日は、その、お礼を言うておられます。ね。
そら誰でもです、んなら家庭の中にああいう、例えば関さんを目の前にご覧になってから、本当にあれならもう、やはり自分はやっぱへとへとだったですね。まあほんに神様を恨むごたる時代があったけれども、日頃の信心友達が一生懸命お祈りぞえをされた。そしてそのまあああいうおかげを段々頂いていかれたという事がです、んならああいう目に遭わなければです、めぐりのおとり払いは頂けんか、借金払いは出来んかという事ではないところにです、お道の信心の有り難さがあると私は思うのです。
私は度胸はいると思う。神様がおとり払い、おとり払いにかかって下さるならです、ね、本気でおとり払いを頂く、やれ痛や今みかげをという心にならせてもろうて、おかげを受けていかなきゃならない。そこでです、私共はもう一歩です、向こうから借金取り来ては貰わない、こっちから借金ば持っていくという度胸をすえなければいけないということ。向こうから借金取りが来てもらうならじゅつない。
だから、こっちから持って行くという気にならなきゃいけない。それは、私は奉仕だと、ね。そういう意味でです、今度のご造営のことなんかは素晴らしいと思うです。その気にならせて頂いてです、ね。神恩報謝の有り難いというのがですたい、本当に日頃頂いておるお礼を思えば思うほどじっとはしておられないというようなことだけではできんと。ね。今までどうにもできなかったです、自分のこれを改めなければならん、普通は、日頃では改まれなかったところを改まらして頂いてです、ね、迫力をつけていかなければいけないというような、御理解を先ほど頂いておりましたがです、ね。
共が度胸をすえて、借金取りが見えてから払うのじゃない、借金、こちらが借金を持って行くような勢いをもってです、おかげを頂いていく時にです、勢いと有り難いで私は、お広前が建立される。自分はおとり払いを頂けておるというようなおかげを頂けれるのが、私はお道の信心だと思うとります。これはもう創価学会だけではありません。もうあらゆる宗教、宗派のですね、これはもう絶対なものなのです。
確かに本気にならせてもろうて幸せになろうとすればです、ね、幸せにしてやろうという働きが始まる。それを夫婦喧嘩日頃仲の良かった夫婦が仲が悪うなったり、今まで出なかった病気が出だしたり、災難が続けて起こってきたり、いわゆる先を競うて言わば形の上に難儀が現れてくるけれども、そこを辛抱し抜かなければならないというこの理だけは、何宗何派だって同じです。本気でおかげを頂こうという気になってくれば。
井戸ざらいさして頂くということでもです、ね、それをそのまま、言うならば天地に対するところの借金の、と同じことであるから、向こうから借金取りに来てもらうのを待っておるじゃあない、こちらが積極的にです、借金払いに行こうというような気にならせて頂けばです、ね、借金払いができるだけではない、そのことがお徳にもなりゃあ、おかげにもなってくることを私は確信いたします。ね。
そういう意味合いにおいて、私、一番初めから申しますようにです、お道の信心を頂いておることが有り難いと、本気で分からにゃあいけんということ。特にです、そういう生き生きした働きを確かに椛目の広前では頂いておるということ。信心のない中鶴さんでもです、そのことを感じておられるということ。ね。そういう生き生きした働きのあっておるところでです、信心の稽古をさして頂いておるということが有り難い。
なら、その有り難いをいよいよ、迫力のある有り難いにしてです、ね、さあ向こうから借金払いに来てもろうた時にも、もちろん払いもしなければならん、払わなければならんけれども、元気な心で頂いていかなければならんけれどもです、それよりも私は一歩先んじて、こちらから支払いに行こうというような信心がです、しかもこのチャンス、ね。こういう絶好の機会にです、そこんところのお繰り合わせを頂かなければならん。心に度胸を作らせて頂かなければいけないと私は思うですね。
どうぞおかげを頂きました。